【目次】

31.ウルカミュージック エンタテインメント

30.「笑顔の集い」最終回

29.音響担当者として

28.「夢追い人」

27.ドラムを叩けば

26.真の友/北山明

25.東日本大震災復興支援コンサート

24.「青い風」のレパートリー

23.サロン活動

22.ご当地ソング

21.オレンジコンサート

20.川内優輝応援歌「強く大地を踏みしめて」

19.幻の楽曲:「面影」

18.街かどコンサート

17.もうひとつの「青い風」

16.フォークソング愛好会

15.プロとの交流

14.楽曲づくり

13.ギター歴(ヒデ)

12.ケイコさん

11.JAZZ

10.旧友「エルム」

 9.青い風のステージ変遷

 8.まりこふん

 7.盟友「とら」

 6.盟友「さばいばるいとう」

 5.ELVIS

 4.ビートルズ

 3.岡林信康

 2.吉田拓郎

 1.フォークソングの歴史

 

 

 

31.ウルカ ミュージック エンタテインメント

UME(ウルカ ミュージック エンタテインメント)は、私が15年前に資本金300万円で設立した音楽事務所(株式会社)です。

代表取締役は当初から娘の「まりこふん」(芸名)になっており、自宅に本社を置く家族経営の会社です。

この頃は、ヤマハのボーカル講師であった「まりこふん」が講師を休業してプロとしての演奏活動を始めた頃でした。

サラリーマンだった私自身も退職後は大好きな音楽活動を本格的に始めたいなどと思っており、自分自身の活動の他にも音楽学校の経営などを念頭に描いて定款を作成しました。

もともと教師であった妻のK子さんは何でも教えることはできるので、音楽以外にも教育全般やエンタテインメント関係で事業展開の幅を広げたいとも思っていました。しっかりと事業計画を固めてから行動を開始するよりも、漠然とでも思い立ったら走り出し、走りながら道筋を固めていくのが私の流儀なのです。

 

その後、「まりこふん」はプロとしての活動が軌道に乗り、全国の古墳イベントへの参加に加えTVやラジオへの出演、講演やミュージシャン活動などをこなしつつ会社の税務処理などを担っています。我が家では細々ですがピアノ教室も続けています。

一応は㈱UMEに所属する「青い風」も諸々の音楽活動で一定の収入を得ていますが、プロとしてよりもボランティア意識を大切にしているので自分たちの音楽を楽しむための資金源を確保している程度です。

 

CDなどを制作する場合は「ウルカ ミュージック レコード」というレーベルを使用しており、「まりこふん」「青い風」のCD以外にも他のアマチュアアーティストの音楽CDの制作を行ったりしています。

そんなわけで、UMEにはそれほどの稼ぎは有りませんが、毎年法人税や事業税などを確実に納めていることで細々ながら社会貢献し続けていると自負しています。

「まりこふん」は、私が生きている限りは会社を継続させるのが親孝行、などと言いつつ全国を走り回っています。

 そして、いつかは《ライブのできる喫茶店の経営》を目指しているようです。

 

(2024年4月13日・・・音楽を家業とする我が家は㈱UMEで繋がっています/ヒデ)

 

 

30.「笑顔の集い」最終回

私が参加してきたサロン活動(高齢者との歌声交流)の中で拠点としていたのが地元の『笑顔の集い』であり、久喜では最も規模が大きく歴史の長い模範的なサロンでした。活動は月に一回、地元の集会所で行っていたのですが常に50名以上は集まる人気のサロンでした。 でした・・・と、過去形なのは今年の3月で終了したからです。

 

地元の区長でもある私は運営メンバーの一人なのですが、仲間の要請も有って何度も出演しては皆で歌うことを共に楽しんできました。私一人で出演した事も有りますが、大体はフォークソング同好会やギター教室の仲間2~3人と同行し、仲間たちにもサロンでの演奏経験を積んでもらうように心がけていました。

何処のサロンでも最初に歌うのは「四季の歌」と決めています。そして「見上げごらん夜の星を」「学生時代」「この広い野原いっぱい」など皆が知っている往年の名曲を5~6曲歌い、その後は私たちの演奏を2曲くらい聴いていただき、また皆で数曲歌うのが常でした。最後に歌う曲は以前は「リンゴの歌」「青い山脈」でしたが、コロナ禍以降は「翼を下さい」「ふるさと」が多くなってきました。

 

今年の3月に「笑顔の集い」の最終回を迎えるにあたって、最後の出演者を「青い風」に・・・と仲間内から要請されました。

同サロンに思い入れの深い私は地域の皆様に記憶に残して頂くことを心掛け、今までサロンで歌うことの無った「青春時代」を歌うことにしましたが、この曲が共感を得て繰り返して歌うことになりました。さらに「翼を下さい」の後のフィナーレには、ライブでしか歌わないオリジナルの「忘れないで」を歌い、皆様に感謝の思いを届けました。

終了後には、参加した皆様から「とても良かった。」「楽しい時間をありがとうございました。」などの言葉もいただき、笑顔で別れる事ができました。

 

その晩は運営者による「ご苦労さん会」が実施され、皆さんから「最後に青い風で締めていただいて良かった。」「おかげで素晴らしい最終日になりました。」などと言われホッとするとともに、私自身にとっても大いに記念に残る演奏会になりました。

地域の皆さんのとの交流を深める事の出来た「笑顔の集い」に大いに感謝したいと思います。

 

(2024年4月10日・・・「青い風」は、いつの間にかサロン活動に支えられていました/ヒデ)

 

 

 

29.音響担当者として

当初は自分が音響機材を操作するなどとは夢にも思っていませんでした。

もともとメカは得意でもないし音響への興味も有りませんでしたが、エレキバンド時代はギターのアンプやボーカルアンプは自分の手で調整せざるを得ないので徐々に仕組みが分かってきました。フォークシンガーになってからは音響は全く他人任せで、「青い風」が復活してからもライブハウスに出向いて演奏するばかりで自分の音響機材を持つっことも不要でした。

「久喜フォークソング同好会」を組織し「久喜フォークソングライブ」を主催するに至って、ついに音響機材を購入して最小必要減の操作を行うに至りました。

今はライブを主催する場合が多くなり、いつの間にか増え続けてきた機材を場面に応じて駆使するようになってきました。

当然、マイクやスタンド、ライン等の付属品の数も増えてしまい格納する場所にも困っているのが現状です(今では7、8人のバンド演奏にも対応できます)。

 

アコースティックな演奏において音響の役割は非常に大きく、音響の優劣が演奏の出来に大きく作用する場面が多くありますし、演奏者の満足感に影響することも事実です。音響の力で自分の演奏力以上に聞かせることも可能ですし、せっかくの素晴らしい演奏を台無しにしまうこともよくあることです。

演奏者として音響の影響力を十分に分かっているだけに、自分が音響操作する場合には細心の注意を払うのですが、それでも満足いかない時も多々有ります。「青い風」の音響操作でさえも毎回違うのです。

上手くいかなかった場合の落ち込みも大きく、自分の演奏の失敗以上に後悔するものです。

こう思うと音響は他人に任せて自分は演奏者に徹すれば良いのですが、特殊技能なのか皆さんから頼まれるとつい引き受けてしまう私なのです。

もしかして、演奏者を引退しても会場の片隅で神経を研ぎ澄ませつつ音響機材を操作している私の姿が見られるかも知れません。

 

(2024年3月4日・・・音響には演奏を支配するチカラと責任が有ります/ヒデ)

 

 

28.「夢追い人」

私は度々「先生だったのですか?」と聞かれます。更には「高校の社会の先生でしょ。」などと言われます、そんな雰囲気なのでしょうか?本物の先生だった相方のk子さんに言うと、「確かに高校の社会の先生のようだ。」などと笑われます。

実際は某大手化学会社に勤めていたサラリーマンにて、会社では工場、営業、企画、経営等の立場を経験しつつ、並行して業種横断活動も担うこととなり、特に広告業界の面々との深い交流は私にとってはとても刺激的なキャリアになりました。

昔から好奇心の旺盛な私は、公的な交流会とは別に個人的な業界交流会にも参加するようになり、中でも化学業界を横断するOK会というグループの面々とは現役時代から、そして引退後も親しく交流することになりました(今も細々と続いています)。

 

2011年春のOK会の会合で私が現役引退を宣言しつつ引退後は音楽を中心に新たな挑戦を続けてゆくと語り、併せてOK会の応援歌を創作することを約束しました。そうして、音楽活動再開後に創作したのが「夢追い人」と題した曲なのです。

この曲には、私が過去をリセットして新たな荒波に向かって航海を始める決意をつぎ込むとともに、同志への称賛と応援の気持ちも込めました。そしてOK会のメンバーが私の演奏会に出向いて頂いた際には必ずこの曲を歌うことにしていました。

聴いていただいたメンバーは納得した様子で、「私たちの曲だね。」などと言って頂きました。

 

コロナ禍では会うことの無くなってきたOK会の面々はどうしているのだろうか?

会合の際は化学業界の未来をアカデミックに語りあう優秀な面々たちは、それぞれに本業以外にも趣味の範疇を超えたレベルの挑戦を続けており、その様子を語りながらお互いに刺激し合ってきました。もちろん、私も刺激を受けつつ自分を研鑽してきました。

スリーフィンガーでカントリー調に奏でる「夢追い人」を演奏するたびにOK会のメンバーに思いを寄せる私です。

「・・・オーケーまた旅に出よう 力を合わせて~♪ オーケー この船に乗って 時代の波を恐れずに~♪」と締めくくるこの曲は、私自身への応援歌でも有ります。

(2024年3月3日・・・私の人格形成に寄与頂いた多くの方に感謝するばかりです/ヒデ)

 

 

27.ドラムを叩けば

昨年末に友人からドラムセットをプレゼントされました。友人はそのまた友人から不要になったドラムの処分を頼まれ、回り回って私が引き取るに至ったのが顛末なのですが、流石に置き場所にも困るサイズなので引き取るのは迷いました。

そして我が家にやってきたドラムに消音マットを取り付けてほゞ50年ぶりに叩いてみましたが、すっかり叩けなくなってしまったのには愕然としました。それでも毎日少しずつ練習して、2か月後の今はようやくロックの基礎を普通に叩けるようになってきました。

 

私は学生時代に、それも大学生になってすぐにロックバンドを編成しリズムギターからスタートしたのですが、ほどなく欠員となったドラムを担当するようになり1年間ぐらいですがドラマーとしてのバンド活動を続けていました。

中学校1年生の時に半年くらいの間ですがブラスバンドで小太鼓を叩いていた私はバチさばきの基本は出来ていたので、あとはドラム譜面でロック奏法の基本を独学で習得し、何とか叩けるようになった様です。

いつの間にかビアガーデンやゴーゴー喫茶(そのころの呼び方)でバンドでのアルバイトをしていたということは、ある程度は格好付いていたのではなどと思います。

いま思うと自分のリズム感に多少自信が持てているのは、ドラムでリズムを会得したことが大きいと思い、最初がドラム奏者で良かったなどと納得しています。

いま、ギター演奏の指導などを行う立場になって良く分るのは「音楽の基本中の基本はリズムにある」ということであり、リズム感を備えれば他の技術は時間はかかっても習得できるのは間違いありません。どんなにテクニックが熟練してもリズム感が未熟では残念ながら演奏が成り立たないのが現実かと思っています。

楽器が好きな私は、コレクションの意味も有ってピアノ、ベース、トランペット、フルート、尺八、三線等にチャレンジし一応は超簡単なな演奏はできますが、やはり自分に合うのはギターとドラムのように思います。

もし本格的にドラムを練習したらギターよりも上手になれるはず・・・などと勝手に思いつつ、ビートルズの演奏に合わせて直向にドラムの練習を楽しむ私なのです。今や、ドラムはストレス解消以上の存在感を私に提供してくれています。

(2024年3月3日・・・久々に、私の好奇心を駆り立てているのがドラムです/ヒデ)

 

 

26.真の友/北山 明

フォークソングが最も盛んであった1970年代に、「青い風」は学生バンドとして全国でも有数の「フォークの街」であった宇都宮で音楽活動を行っていました。この頃に最も近い存在だったのが「北山兄弟」でした。兄の北山明は大学のクラスメートにて、勉強よりも音楽を優先する点(自慢にはなりませんが)で私と「似た者どうし」でした。そしてその弟が音楽的才能に溢れた北山真(のちにプロのミュージシャンになり、さらには著名なトップクライマーになる)でした。卓越した歌声の兄と作詞・作曲をこなす弟の演奏は素晴らしく、見栄えも良かったので地元でも人気のバンドになっていました。

地元育ちで友人の多い北山明を通じて多くの音楽仲間(盟友:大金淑郎氏など)を得る事が出来たのが今でも私の財産になっています。

学生時代に一緒に企画した最も大きな演奏会は「北山兄弟・青い風 JOINT COCEART」でした。この時が「青い風」が最も真剣に練習をした時だったように思います。「青い風」は2ステージをこなし15曲位を歌いました。この時は栃木会館のホールが満員になりました。

北山明の歌で最も印象深いのはフォークソングよりも「男の世界」「愛さずにはいられない」などの曲で、プレスリーばりの迫力のある歌声は抜群に魅力的でした。大学では音楽と並行して水泳部にも所属する超元気者でした。

 

彼は大手の石油会社に就職し国内外のプラント責任者として実力を発揮し最終的には役員になりました。同じく大手化学会社で事業責任者になっていた私とは仕事でも交流することになりました。

お互いに仕事人間になってからも音楽への情熱は持ち続けており、定年近くなってオヤジバンドブームが盛り上がってきたころには二人で記録を残そうということになり、6曲(風に吹かれて、まぼろしの翼と共に、朝日の当たる家etc.)入りのCDを作成しました。

今は退職して北海道の大地で地元の仲間と共に歌を楽しむ彼は、時々娘や孫に会うために上京しますが、そのたびに合流して飲んだり歌ったりして旧交を温めています。

私は彼をモチーフに「時の流れに」「友と語らん」の2曲を創作しており、たまに「青い風」のステージで演奏しています。

更には、亡くなった共通の友人山崎氏を偲んで「My Friend」というバラード曲を提供しており、彼は時々は自身のステージで思い出と共に演奏する事が有るそうです。

一度北海道を訪ねて、北の大地で一緒に演奏する事が私に残された宿題になっています。

 

(2024年2月8日・・・音楽を超えて、心を許せる友がいることに感謝したい/ヒデ)

 

 

 

25.東日本大震災復興支援コンサート

東日本大震災が発生した2011年の春に再結成した「青い風」は音楽仲間からの誘いも有って、その年の5月には栃木県真岡市で行われた「東日本大震災復興支援コンサート」に出演し、被災地へのエールを届けました。

2012年以降は久喜市内で演奏する機会も増えて地元の仲間との交流も広がってきました。その中でJAZZ喫茶「珈琲パウエル」に頻繁に通うようになり、マスターやベーシストの菊池さんとの交流が深まり、一緒にコンサートを企画するに至りました。

そして運営母体として「久喜音楽文化振興会」という名の組織を創り、2014年3月1日に「東日本大震災復興支援コンサート」を開催するに至りました。

収益金全額を被災地に寄付する事が前提なので、寄付先として決めた「東日本大震災復興支援財団」との交流も始まりました。当初は「いわき明星大学」から被災地の様子を知るためのパネルや冊子などを借り、さらには復興を担っている福島県建設部の担当者との連携もあって、私たちも何度か現地(福島県いわき市周辺)を訪れる機会を得ました。

そして建設部の担当者から「福島県フォークソング協会」を紹介いただき、支部長の佐藤さんと私の交流が始まりました。

2022年のコンサート時には「いわき支部」から多くのメンバーが応援に駆け付けてコンサートを盛り上げて頂きました。

今では私たちが「いわき支部」主催のコンサートに出向いたり、「いわき支部」のメンバーに「久喜フォークソングライブ」に出演して頂いたりのフォークソング交流が続いています。

当初はコンサートにゲスト演奏者を招くこともありましたが、第3回以降は「青い風」「swing30」の2バンドでの演奏に固定されるようになりました。一緒にコンサートを立ち上げた菊池さんが亡くなったり、「SWIG30」のメンバー変遷や「青い風」もサポートメンバーの変遷がありましたが、フォークソングやジャズを通して被災地への思いを届ける意思は変わっていません。

 

何事も続けることは大変ですが、このコンサートが続いているのは「被災地にエールを送りたい」という強い意志が有ればこそかと思いますし、来場するお客様の温かい支援のたまものだと感じています。もちろん、スタッフも同じ気持ちで運営を担っています。

最近では激励しているつもりの私たちに対して、被災地から激励を頂くことが多くなりました。

「東日本大震災復興支援コンサート」は被災地への激励はもちろん、「青い風」が本来の「青い風」らしくいられるためのコンサートなのかもしれません。

(2024年.2月.6日・・・全ての音楽活動が交流の輪を広がりに貢献するものです/ヒデ)

 

 

 

24.「青い風」のレパートリー

学生時代の「青い風」がステージで歌うときの持ち時間は概ね20分くらいにて、4~5曲の演奏だったのでそれほどれ多くのレパートリーは必要ありませんでした。必ずオリジナルの「青い風のテーマ」「愛がすべて」は歌ったので、あとはケイコさんが得意のPP&Mの「ハングマン」「ベティ&デュプリー」「ベリーラストデイ」やS&Gの「早く家に帰りたい」「4月になれば彼女は」などがレパートリーだったと記憶します。和製フォークの少しはも歌いましたが、アメリカンフォーク中心が「青い風」のイメージだったと思います。

 

2011年に再開してからはオリジナルが中心になり、人前で歌ってきたオリジナル曲はCDに収録した30曲位になります。アメリカンフォークではPP&Mの「500マイル」「虹と共に消えた恋」「悲惨な戦争」、S&Gの「ボクサー」「サウンドオブサイレンス」の他に「レットイットビー」「ヒアカムズザサン」「イエスタデイワンスモア」など皆さんがよく知っている名曲を歌うようになりました。

そして、今ではレパートリーを増やすよりも皆さんが聞きたいだろうと感じる「青い風」らしい曲を何度も選ぶことが多くなりました。

 

最近、多く歌っている曲ば「珊瑚の島」「忘れないで」「夢があるから」(以上はオリジナル)「レットイットビー」辺りであり、アクセントとして歌う曲は「スカボロフェア―」「くよくよするなよ」「ハッピーバースデイ」「強く大地を踏みしめて」などです。

ステージでの音響調整用としては「風に吹かれて」を使用しており、初心に帰りたいときにはこの曲を1曲目に歌うようにしています。

また、「フォークソング同好会」で何度も歌ううちに多くの和製フォークに馴染むこととなり、サロン演奏では「なごり雪」「神田川」「知床旅情」「サボテンの花」などを披露する事も有ります。

 

 

「青い風」が今までに準備してきた全レパートリーを挙げれば100曲以上はあると思いますが、実際にステージで歌ったのは70曲くらいかと思います。「青い風」用ではない曲や、ケイコさんに却下されて温めているオリジナルだけでも50曲くらいは有りますが、その中には隠れた名曲が有るかも知れません(勿論、淡い期待です)。

いつか「青い風」が取り上げた曲の全てをリストアップしてみたいなどと思っています。

(2024年1月27日・・・歌ってきた曲にはそれぞれに思い出が詰まっています/ヒデ)

 

 

23.サロン活動

「青い風」が久喜市内で活動を始めたのは2012年にフォークソング同好会を設立してからの事ですが、同好会が軌道に乗った頃から市内の高齢者施設や障がい者施設など(総じてサロン活動と称しています)からも声がかかる様になってきました。

青い風の音楽のスタイルがサロン活動に向いているとの評価だと思います。

通常のライブ活動以外にもボランティア活動の一環として可能な限りオファに応えるようにしてきましたが、地元の「笑顔の集い」をはじめに累積では100回(10ヶ所以上)くらいの施設演奏活動を行ってきたと思います。

どこの施設でも、私たちの伴奏で皆様と共に歌うことで楽しんで頂けることを心掛けていますが、最近では回数を重ねるうちに顔なじみになってきた皆様との交流を私も一緒に楽しんでいるように感じます。

思い出はたくさんありますが、私が印象深かったのは、「青い風」で出向いた障がい者の施設での演奏の時です。いつものように誰でも知っている曲を皆で一緒に歌っているうちに、長い間の病気で無表情になり全く声を出したことが無かった壮年の女性が小さな声で歌い始め、驚いたスタッフが「○○さんの声を初めて聴きました。」と涙交じりに語った時の感動です。その時に歌い始めた方が少しながら微笑んだことも鮮明に覚えています。

この時は、「歌のチカラ」は自分の想像を超えていることを知りました。

 

サロン活動を始めた頃は「青い風」の二人で出向き演奏することが基本でしたが、今では私が「弾き語りギター教室」のベテランメンバーと共に出向き、一緒に演奏する事が多くなりました。ギター教室で自分の伴奏で歌う楽しさの先に有る、みんなで歌って喜んでいただく楽しさを知って頂くためです。会場の様子を見ながら臨機応変に演奏対応することは難しいことですが、回数を重ねると慣れてくるものです。

演奏を続ける限り、大きなコンサートも大切ですが、私としてはサロン活動も大事にしてゆきたいと思います。

私の持ち味は、実のところサロン演奏でこそ発揮できるのではないだろうか・・・などとも思っています。

サロン活動で「ライブ演奏の在り方」を鍛えられている私なのです。

 (2024年1月5日・・・今となっては、私の音楽活動の拠り所ともいえるのがサロン演奏なのです/ヒデ)

 

 

22.ご当地ソング

私(ヒデ)が久喜市に関係する曲としては創作した作品には下記のような曲が有ります。

 「喜びの街で」・・・音楽の街をリードする久喜フォークソング同好会のテーマソング(CD:「命の唄」に収録)
          フォークソング同好会が軌道に乗ってきたころに皆で歌うために創作した曲にて、共に歌う仲間たちの「思い」に

          心を寄せて詞を創りこみました。反響も多くて今では同好会外にも多くの共感を得ています。

          同好会の定例会では必ず最後に皆で歌う曲になっており、メンバー愛唱歌として定着している大切な曲です。 

 「面影」・・・作家&ギタリの深沢七郎が創作したメロディーに詞を付け編曲した作品

          「楢山節考」で有名な深沢七郎(作家&ギタリスト)は久喜市菖蒲地区にあるラブ三―農場で創作活動を行ってい   

          ました。没後に深沢七郎記念館記念館を運営している森田進館長が発見した遺作メロディーに私が詞を乗せて「面

          影」と名付けて発表しました(関係者承認です)。この曲は朝日新聞にも掲載され注目されました。

 「ユートピア」・・・ラブ三―農場と深沢七郎先生を偲んで創作した作品(CD:「ユートピア」に収録)

          今は取り壊されて別の施設になってしまった「ラブ三―農場」は、問題作を発表した深沢七郎が難を逃れて終の棲

          家として過ごした憩いの地でした。農業を行いながら作家活動やギター演奏活動を行っていたこの地が深沢先生の

          「ユートピア」であった筈、との思いでカントリー調に創作しました。   

 「強く大地を踏みしめて」・・・久喜市在住の世界的マラソンランナー:川内優輝公認の応援歌(CD:「命の唄」に収録)

          久喜市で育ちで世界的マラソンランナーとなった川内優輝選手と知り合い、本人の許可を得て創作した応援歌で、

          本人の人柄と孤高のランナーとして戦い続ける様に心を寄せて創作しました。ビックレースの壮行会や報告会など

          で本人と共に何度も歌いました。この曲を歌うときはチカラが漲ります。

 「静かなる」・・・栗橋駅前になる静御前の墓前に捧げるために創作した義経との悲恋を偲ぶ作品(CD;「ユートピア」に収録)

          毎年4月中旬に栗橋駅前にある名跡/静御前の墓前に詣でるのは「青い風」のの恒例なのですが、いつしか義経に

          思いを寄せる静御前の悲恋を偲ぶ曲を創りたいと思うようになりました。そして曲を創り発表する頃に埼玉新聞の

          取材を受けることになり大きな記事になりました。私としては以前に創った「恋しくて龍馬」の第二段として創作     

          作品ですが、思い以上に反響の高い曲になりました。私の作詞作曲したご当地ソングの象徴だと思います。

 (2023年12月27日・・・ご当地ソングを今後も大切に歌い続けたいと思います/ヒデ)

 

 

21.オレンジコンサート

2015年だと思いますが、同好会のメンバーで市会議員でもあるNさんから「久喜市でも児童虐待防止の運動を進めたい」との相談がありました。共感した私は、既に川内優輝選手繫がりで知り合いになっていた郷間彰さん(ランニングで全国的に児童虐待防止活動を続けている著名活動家)を紹介し、二人で具体的な活動を進めるためのアドバイスを受けました。

そして2016年の11月(児童虐待防止推進月間)には、私を含め同好会メンバーの4人を中心とする運営にて「1回オレンジコンサート」が実現しました。

当日の第一部では「シンポジウム」でゲストの郷間さんを中心にして児童虐待の実態などを語り合い、二部では子供たち中心のコンサートを行いました。そしてコンサート後に郷間さんから川内美加さん(川内優輝選手の母親)に「子どもたちに笑顔を」のタスキが渡され、最後に郷間彰さんの掛け声に合わせて、会場全員で「子どもの笑顔がイチバン!」のコールを行いました。

以降毎年同様のプログラムで「オレンジコンサート」を続けています(コロナ禍にて一度だけシンポジウムだけの配信を実施)。

1回目のコンサートには「青い風」が同好会メンバーと共に出場し、2回目は私が率いる「久喜ランナーズ」が川内優輝選手応援歌を歌い、3回目は弟の川内鮮輝選手が私が創作した自身のテーマ曲「鮮やかに」を歌いました。

そして昨年(2022年)はウクライナの歌姫「カテリーナ」さんを迎え感動の歌声を聴かせていただき、今年(2023年)は真打昇進を控えた「春雨や風子」さんの落語で会場を沸かせました。

毎年参加いただいている郷間さんに加えて、ゲストの他に「スタジオYOU」のキッズダンスと「太東中ゲキ部」のパフォーマンスもレギュラーとして観客の皆様を魅せています。毎回繋いできたタスキは今年は梅田久喜市長に渡されました。

 

この間にも、児童虐待は益々大きな社会問題となり感心も高まっています。

今では久喜市からの委嘱イベントになっている「オレンジコンサート」を、コアの4人を中心にF同好会メンバーや民生委員などの同志と共に長く続けてゆきたいと思っています。

(2023年11月13日・・・こんなに団結力の高い運営メンバーは珍しいかも/ヒデ)

 

 

20.川内優輝応援歌「強く大地を踏みしめて」

「青い風」の音楽活動が久喜市内で少しずつ知れ渡ってきたころに、友人で市会議員でもあるSさんから、久喜市を盛り上げるために公務員ランナーとして全国的に有名になってきた久喜市在住の川内優輝選手の応援グループを結成しようという誘いをうけました。そして数人の仲間で応援プロジェクトを創り、SNS(facebook)で全国に川内選手の情報を発信することにしました。

更に、Sさんからは壮行会などのイベント用に「応援歌を創ったらどうか?」という話が私に向けられてきました。

弟の鴻輝君(当時は大学生)や母親の美加さんは知り合いでしたが、優輝選手は直接話したことが無かったので早速マラソン大会に出向き優輝君と直接話す機会を得、さらには本や周辺の話を総合して私なりに曲つくりを始めました。

そのころ決まっていた世界選手権出場の壮行会に間に合わせるべく、期限を決めて創り上げた曲はフォーク調を残しつつも、私の曲としては今までにない勇ましい曲調になりました(2013年春)。

そして、華やかな壮行会に相応しくすべく地元の合唱団に声をかけて「青い風&久喜児童合唱団」で歌うことにしました。

壮行会では、本人をはじめ大勢の川内ファンの前で演奏を披露しましたが、市長からは詞の説明を求められ、またSさんからは「すごく良かった。応援歌に相応し力強さを感じた。」などと褒められ、川内選手と握手を交わした写真が新聞に載ったりもしました。

その後も、市内で実施する公式な川内選手に関るイベントには欠かさずに応援歌「強く大地を踏みしめて」を歌うことになり、今では川内選手も一緒にバンドに入って歌うことが定番になっています。

 

実は、「自分の気持ちを楽曲にして歌ってみたい。」という川内選手の発案も有って、川内優輝作詞、砂川隆秀作曲「現状打破~勇気あるものへ~」という曲を創り、一度だけ私たち(この時はランナーズ)の演奏で川内選手がメインボーカルで歌ったことが有ります。

川内選手自身が本音を詰め込んだ渾身の詞に私がメロディー付け、我が家の音楽室で二人で2時間くらい秘密練習を行ったことは私の記憶の刻まれる楽しい時間になりました。「強く大地を踏みしめて」と共に「現状打破~勇気あるものへ~」も私の宝です。

(2023年10月21日・・・川内優輝選手への応援はまだまだ続きます/ヒデ)

 

 

19.幻の楽曲:「面影」

菖蒲文化会館(アミーゴ)で実施していた「深沢七郎生誕100年」の展示会を見て衝撃を受けた私は、すぐに深沢七郎文学記念館の森田館長に会い、深沢先生が終の棲家としたラブ三―農場(久喜市菖蒲地区)での生活を聞かせていただきました。深沢作品や森田氏の追悼書籍を集中して読破するとともに何度も「ラブ三―農場(当時は部分的に保存されていました)」を訪ねて、深沢作品の神髄に触れようなどと思っていました。

有名な作品「楢山節考」は読んでいたし映画も観てはいましたが、深沢先生が放浪の末に菖蒲地区に住居を構えて農業を営みながら作家活動を続けていたなどとは夢にも思ってもいませんでした。ましてギタリストとしても活動していたとは、それまでは全く知りませんでした。

 

森田館長との交流の中で深沢先生が残した未発表の譜面(森田さんの採譜)が有ることを知りました。古賀メロディー調の懐メロ系の譜面に触れた私は詞を付けることを提案し、森田さんや著作権保有者の許可を得て具体的に作業することになりました。

私は、森田さんの深沢先生に対する深い思いを想像して詞を創りました。曲名は深沢先生を偲び「面影」としました。前奏や伴奏を付けて森田さんの前で歌うと森田さんはしばらく絶句して、得心の表情で無言で何度も頷いてくれました。

それからは、森田さんが主導でCDに録音するとともに朝日新聞社の取材を受けて、大きく記事に掲載されるに至りました。

そして、その年の年末には毎年深沢先生が生まれ育った山梨県で実施している追悼番組で、深沢イズムに傾倒しているフォーク歌手「三上寛」さんの前で「面影」を披露させていただきました。

あれから何年もの年が経ち、今では「面影」の存在を知る人は殆どいないと思います。

懐メロ調の曲調なので、フォークのコンサートで歌ったことは無く、今では「幻の曲」といっても良いくらいです。

私としては、寡黙で純粋な森田さんが、今も深沢七郎文学記念館長として信念を強く持ち続けていることに敬意を持ちつつ、いつかはもう一度、気持ちを込めてしっかりと歌ってみたいなどと思っています。「面影」は私の密かな宝物といえる楽曲です。

(2023年10月11日・・・この曲を思うと胸が締め付けられル思いになります/ヒデ)

 

 

 

18.街かどコンサート

「青い風」が再開して1年後には「久喜フォークソング同好会」を創り、更に1年が経過して活動が軌道に乗ってきたので、本格的に「フォークの街 久喜」を目指し始めました。ちょうど同時期に当時の久喜市長や教育委員会(Nさん)から、官民一体での「音楽の街つくりを進めたいので協力して欲しい」との要請を受けました。

まず、形の上では私が責任者で「街かどコンサート推進チーム」なる組織を創り、諸々の手続きを経て市民活動推進補助金をベースに活動を発進することになりました。試行錯誤を繰り返して或る程度継続への目途が付いた1年後には名実ともに久喜市教育委員会生涯学習課文化振興係が主導となり、私たちは民間支援グループの立場で活動をサポート形になりました。

今に至るまで55回のコンサートを実施し、私は殆どの回に推進チームの立場で参加してきましたし、フォークソング同好会からも多くのメンバーがサポートメンバとして支援を続けています。

 

記念すべき「第一回街かどコンサート」では、桜が舞い散る中央公民館の前で「青い風」がフォークソング同好会メンバーと共に高らかに歌ったのが強く印象に残っています。他にも同好会で2回の演奏参加を経験し、更に私自身は「ランナーズ」で2回の参加(いずれもモラージュ菖蒲)を経験しています。

前市長、現市長がランナーズに飛び入りで参加し、一緒に歌ったのは今では懐かしい思い出になっています。

時間を経て徐々に場所も内容も固定化してきた「街かどコンサート」は、市民の間に定着化してきたように思いますが、そろそろ次のステップへの過渡期にあるような気もします。

マンネリ打破のためにも質の高い音楽の提供を志向することや、仙台、錦糸町、春日部のように街中に音楽があふれる「音楽の日」の具体化に向けて、私自身も行政と共に知恵を絞りたいと思います。

久喜マラソンと同時に広範に実施する「街かどコンサート」にはランナーの視点で観ても独自性を感じます。

 

求めているのは「質の高いフォークの街」なのか「すそ野の広い音楽の街」なのか、時々揺れ動いている私です。

(2023年10月7日・・・何事も、続けていれば見えてくるものが有る/ヒデ)

 

 

 

17.もうひとつの「青い風」

私たち「青い風」が活動を再開して数年後に、まさかの連絡(メール)が入りました。

「フォーク全盛期に私たちも関西で『青い風』という名の学生バンドで活動していました。同時期に関東で活動を続けている「青い風」というバンドが存在しているのを知って驚くとともに嬉しく思いました。」といった内容でした。

関西の「青い風」は概ね卒業時に解散して、メンバーは各地域に戻ってそれぞれの人生を歩んだそうです。そして、ほゞ全員が熟年になってから各地域にて音楽活動を楽しむようになった様です。

最初にメールでコンタクトしたのは現在は銚子市に住んでいるAさんで、「青い風」では曲つくりを担当していたようです。何回かのメール応酬を行いつつお互いのCDなどを交換しているうちに、解散時に創作したが世に出すことは無かった「青い風~さよならまたあえる~」という曲を提供いただきました。私の中には存在しない素晴らしいメロディーラインに惹かれて独自のハーモニーを付けて歌うことにしてCD「ユートピア」の中にも収録しました。Aさんには大いに喜んでいただき「青い風」どうしの絆は大いに深まりました。

 

その後に中津川に住むBさん(関西『青い風』のリーダー)からも連絡が有り、当時の『青い風』の活動の様子が更に分かりましたし、提供されたCDを聴いて演奏の実力の高さにもあらためて感心しました。

Bさんからは地域の仲間とのライブ録音盤もたくさん頂き、電話でも何度か会話する仲になりました。

体調が良くないと言っていたBさんですが、「青い風」が新たにリリースした「命の唄」のCDを送った後に、奥様から「Bさんが亡くなった。」という連絡が入りました。更に「亡くなった日に着いたCD中にある曲《あなたにありがとう》を何度も聴きつつ、涙が止まらない。」というメールも頂きました。

信じられないような運命のいたずらに直面し、何か縁よりも深い運命を感じざるを得ませんでした。

東西「青い風」の繋がりは、私たち「青い風」が音楽を続ける理由のひとつにもなっています。

(2023年9月29日・・・「青い風」という名が引き寄せた絆は永遠です)

 

 

16.フォークソング愛好会

「青い風」が活動を再開始してから半年後の2011年末に、SNSを通じて「フォークソング愛好会」なるサークルを創り、新たなフォーク仲間との交流を模索しました。そして、集まった4人のギター弾き達が交流を開始して、何と2012年4月にはその4人を中心に久喜市内でライブを行いました。

その後、メンバーは増えて数年後には20名位になりました。毎月最終日曜日に久喜東公民館に集まり、半日をみんなで歌ったり、個人発表などを行いつつ演奏を楽しみました。更には別途に開始した「久喜フォークソング同好会」と相乗りして音楽喫茶での「サマーライブ」「クリスマスライブ」などを行い、がりも深くなってきました。お互いに刺激を得て演奏技術の向上にもなっていたと思います。

メンバーも東京、群馬、千葉、茨城、埼玉各地から集まり、久喜市内からは私だけだったので、さながら久喜市がフォークの拠点の形になりました。「フォークの街 久喜市」を目指していた私としても個性的で素晴らしいメンバーに恵まれ、とても楽しいサークルに成長してきました。

皆が愛称で呼び合い、初期メンバーの「タケちゃん」「トッチョさん」「ウメさん」などは、長く一緒に楽しみました。

そして初期の時点で入会した実力者「とらさん」は愛好会のシンボル的存在になりました。「くりちゃん」「シマちゃん」「ムーミンさん」「タケちゃん」「ミッチャン」「タクさん」「カミサマ」など、良きフォーク仲間の人柄が滲み出たパフォーマンスが鮮明に記憶に残っています。

7,8年が経ち、夫々が自身の地域で活動の場が広がり、また私自身もいろいろな活動で忙しくなってきたので、継続を希望していた皆様に大変申し訳なくも活動を停止することにしました。

 

今や「とらさん」「くりちゃん」「シマちゃん」「ムーミンさん」などはライブ活動で忙しそうですし、私もたまに交流を続けていますが、しばらくお会いしいないメンバーは音楽を楽しみ続けているのだろうか?

私の音楽人生を飾る大切な仲間たちを時々思い出したりしながら、良き仲間が音楽を楽しみ続けていることを願っている私です。

(2023年9月28日・・・F愛好会こそが私の理想だったように思います。感謝!)

 

 

15.プロとの交流

フォーク創世期は、他の音楽分野とは違いフォークシンガー間ではアマチュアとプロの境界意識があまり無く、プロの方もアマチュア感覚で自由に交流していたような気がします。学生時代の「青い風」が活動の拠点としていた宇都宮市はフォークが盛んだったので、多くのプロとの演奏交流の機会がありました。そしてコンサートの殆どは栃木会館で行い、常時たくさんのお客様に恵まれていました。

共演したプロの方を思い出して記録しておきたいと思います。

 

・吉田拓郎・・・当時から人気抜群で拓郎が出演すれば超満員になりました。「青い風」は何回も共演していましたが憧れの目線でした。

・五つの赤い風船・・・何といっても実力者で素晴らしい演奏力でした。風船の絶妙ハーモニーは「青い風」のお手本でした。

・高田 渡・・・共演したことは当時のチラシにも残っていますがステージの様子は殆ど記憶に有りません。しかし顔は印象的でした。

・なぎらけんいち・・・当時から歌以上に話術が光っており、舞台袖で大笑いしながら聴いていたのを覚えています。

・かまやつひろし・・・道路渋滞でステージ時間に遅れてヤキモキさせられました。その分、地元の演奏者たちは長く演奏できました。

・五輪真弓・・・当時はギター一本で歌っていたように記憶します。澄んだ声が印象的でしたが歌謡調なので観客は少し引いてました。

・オフコース・・・チラシには共演者として記載されていますが印象に残っていません(残念!)。有名になったのはもう少し後の事です。

・杉田二郎・・・共演当時はジローズでした。シモンズや本田路津子さんなどもご一緒させていただきました。みんな仲良しでした。

・山本コータロー・・・ウイークエンドの森一美が「青い風」の演奏仲間だったので、身近な存在に感じます。盛り上げ上手です。

 

私たちの仲間からは「エルム」「橋本俊一」「北山真」などがプロになり、今もそれぞれの道を歩んでいます。 

(2023年9月24日・・・本当に自由で音楽に満ちた青春時代でした/ヒデ) 

 

 

14.楽曲づくり

私はシンガーソングライターなので、「詞と曲のどちらを先に創るのですか?」「作曲のコツは有るのですか?」などと聞かれることが時々あります。人によって違いますが、私の場合は詞と曲を同時進行で創るのが大半で、曲の後に詞を付けることは殆ど有りません。

一曲を創る労力でいえば「詞」を創るエネルギーが80%くらいで、経験的にも良い詞は自然と良いメロディーを引き寄せるような気がします。作詞を重視する私にとって創作は「体験と感動に基づく共感性を詞に注ぎ込む作業」ですが、実際には難しい作業です。

メロディーを創るのには一応のセオリーは有りますが、私も最初のころはそのような知識が無いままに創作を続けていました。

つまり、最初のころは好きな曲のコード進行を活用しており、結果がセオリーに基づいていたというところです。

 

曲つくりはフォークに目覚めた10代後半からで、「シャボン玉」「三色すみれの歌」「愛のない青春」あたりが駆け出しの曲です。

そして「青い風」結成直前に創った「青い風のテーマ」が人前で歌った初めてのオリジナル曲でした。この曲は、伴奏のアレンジをケイコさんが行ったことで「青い風」らしい曲になりました。今でも歌うことが有りますし、youtubeで聴くこともできます。

学生時代は、大きなステージでは最後に必ず「愛がすべて」という曲を歌ってシャウトしましたが、今は歌うことは有りません。

「青い風」の再開前の数年間は温めていた曲想が湧き出てきた頃で「二人だけの賛歌」「友と語らん」「ロンリーナイト」「夢追い人」「珊瑚の島」など多くの曲を創り込みました。そして、再開時には「夢があるから」「ハーモニー」を記念曲として創りました。

また、再開後は新たな試み(実は得意分野)として「恋しくて竜馬「「静かなる」などの歌謡調の曲つくり、更には、縁が有って川内優輝選手の応援歌「強く大地を踏みしめて」など川内3兄弟の歌も創作し、激励会などいろいろな場面で披露しました。

再開後にリリースした3枚のCDには全27曲のオリジナル曲が入っていますが、今ステージで多く歌う曲は「珊瑚の島」「風に乗せて」「夢があるから」「ハッピーBirathday」「忘れないで」です。吉澤礼時さんから頂いた詞に曲を付け、震災復興支援コンサートの時に限って歌う「泣かないよ~my hometown」も大切なオリジナル曲です。

これからも、私が目指す「情景が頭に浮かんでくる曲」を創るために、好奇心を絶やさずに行動してゆきたいと思います。

(2023年9月23日・・・どの曲にも「思い」や「ドラマ」が詰まっています/ヒデ)

 

 

13.ギター歴(ヒデ)

高校に合格した時に希望して親にガットギターを買ってもらい、当初は教則本を買い込み独学でギターの仕組みや音階、そして簡単な奏法を学びました。演奏はクラッシック系にて、目指すのは「禁じられた遊び」でした。

ビートルズやベンチャーズにも傾倒していた私は大学生になったらバンドを組みたいなどと思い、合格してから入学までの間に猛練習をして諸々のコードを覚えました。

大学生になり直ぐにビートルズ編成のバンドを組み、ジョンレノン気分で歌いながらエレキギターを弾くことに夢中になりましたが、バンドの事情でドラム専門に変更し、その後はボーカリストの傍ら何でも演奏するマルチプレーヤー(便利屋)になりました。

1年半くらいはロックバンドでダンスパーティーやビヤガーデンなどでバイト演奏をしましたが、バンド解散を機にフォークソングに変更して、当時憧れていたボブディランや岡林信康の気分になり、ギター一本(ヤマハのフォークギターで奏法はロック調)で図々しくも地方のラジオ番組に出演したりしていました。

フォークデュオ「青い風」を組んでからはスリーフィンガーなどを覚えてPP&Mを基本にフォーク調の演奏にも馴染んできました。

「青い風」は学生バンドとして演奏機会も多く、多くのプロとの共演も経験し、実践で腕を磨きました。

このころは練習量も豊富で、上手くなりたい一心で毎晩3時間以上は二人で練習していたような気がします。

社会人になってからもギターを手放すことは無く、細々とは云え友人と演奏を楽しむと同時に懐メロ、演歌などにも傾倒しました。

永いブランクは有りましたが、2011年の震災直後には「青い風」を再結成して演奏活動を再開しました。

この時に購入したマーチン0028(クラプトンモデル)は今も使用しています。

新「青い風」は新たな演奏仲間からも多くの刺激を受けて演奏の質を高めつつ、2012年にはフォークソング同好会を設立、2013年には「弾き語りギター教室」を設立し、初心者にギターを教える立場になったがために自身の演奏技術を見直す結果になりました。

今はいろいろなギター奏法の歴史も考察しつつ、浅くとも幅広く(フォーク、ロック、演歌、ブルース、シャンソン等々)の演奏を楽しみたいなどと思っています。

生涯のパートナーともいえるギターの曲線美に対し、感謝を込めて熱い視線を注ぐ私です。

(2023年9月20日・・・ギターは私の人生に欠かせないパートナーです/ヒデ)

 

12.ケイコさん

云わずと知れた、「青い風」のを支えている「ケイコさん」について語らなけらばなりません(「ようやく」ですが)。

歌うことが大好きだったケイコさんは小さい頃は合唱団で歌唱力を磨き、大学生になってすぐに「歌う会」というサークルに入り、仲間と歌うことを楽しんでいました。そのうちに自然にそのころ流行りのフォークソングに親しむことになり、短い期間でしたがPP&Mバンドでマリーさんの役割を担うことになりました。

バンド解散後は、ギターにも興味を持ち、ほゞ独学で、しかも短期間でPP&Mの奏法を概ねコーピー演奏できるようになりました。

持ち前の歌唱力で頭角を表し栃木放送(ラジオ)などでソロ演奏を披露することも有りましたが、ヒデとの運命的出会い(詳細は割愛)により「青い風」を結成し、今も続く音楽活動に進むことになりました。

フォークDuo「青い風」はケイコさん主導にて、PP&M、S&Gの曲を中心にレパートリーを増やし、地元(宇都宮)中心にコンサートへの出演を重ねるうちに地域を代表する存在になってきました。

フォークが盛んな当時(70年代)なのでプロとアマの垣根は低く、プロに転身した仲間も居たし「青い風」にも機会もありましたが、ケイコさんは一貫して教師の道を目指し、音楽と勉学を両立させ、卒業後は教師として全力を尽くし最終的には埼玉県内の某小学校の校長職を務めました。

 

2011年の東日本大震災発生直後に「青い風」は再出発することになりました。

クレバーで堂々としているケイコさんですが、音楽に関しては繊細で、いつも妥協のない演奏を目指します。練習も長時間行うことは無く、ライブが近づくと ほゞ毎日を短時間(1時間位)にて集中するスタイルです。音楽以外の趣味は映画鑑賞(話題作は殆ど観ている)と漢字パズルです、新聞も毎日丁寧に見ており特に人生相談欄は欠かすことは有りません。娘の「まりこふん」(プロシンガー)の活動を身近でHELPする役割も担っています。

 ヒデとの出会い、「青い風」の結成秘話、学生結婚の噂の真実、「まりこふん」との親子関係、現在のヒデとの私生活、などを「青い風」の演奏の合間に語る時は皆が身を乗り出す時なのですが、「ケイコさん」は軽く受け流すだけで、歌う事に集中しているのです。

ついでながら、ヒデのケイコさんへの思いは、オリジナル曲「二人だけの賛歌」や「ハッピーBirthday」の中で表現しています。

(202年9月15日・・・短く表現するのは困難な永遠の相棒です / ヒデ) 

 

 

11.JAZZ

フォークソングだけではなく音楽全般が好きな私ですが、昔から時々JAZZ演奏に浸りたくなる時が有ります。

特にJAZZ演奏に詳しいわけでは有りませんが、単純に「いいなァ~。」という思いでインストルメント演奏に引き込まれてしまうのです。

学生時代は、JAZZに詳しい友人から「コルトレーン派?ロリンズ派?」などと聞かれると、たいした根拠も無く、自分の感性(ノリ)とは裏腹に、流行に乗って「どちらかといえばコルトレーン派かな。」などとうそぶいていた程度の偽マニアでした(実はロリンズ派)。

 

仕事人間として頑張っていた頃はフォークとは離れていたので、音楽といえば何となくJAZZが中心だったようで、一時は東京のJAZZライブハウスでの会員になって北村英治や日野皓正などの生演奏に浸っていた時期も有りました。

少しの演奏(約500曲)しか聴きこんでない私ですが、それでも好きな演奏は?と尋ねられれば、躊躇なくマイルスの超絶バラード「枯葉」「ラウンドミッドナイト」「マイファニーバレンタイン」を挙げます。

さらに、好きなアルバムは?と問われれば、「ブルースエット」(カーティスフラー)、「アランフェス協奏曲」(ジムホール)、「サクソホンコロッサス」(ソニーロリンズ)、「ジャズサンバ」(スタンゲッツ)などを挙げます。ミディアムテンポの心地よいリズムと琴線に響く繊細なメロディーこそが私の求めるところなのです。

特に御徒町の喫茶店で初めて聴いたアルバム「ブルースエット」はとても衝撃的で、当時の私の感性に完全フィットした様で、何度もリクエストして聴きこみました。まさに私のNo.1アルバムです。

ジャズギターではノリの良いウエスモンゴメリー、ブルージーなケニーバレルに惹かれます。

若くして亡くなったトランペター、クリフォードブラウンの音色も大好きです。

 

JAZZ演奏は全くできない私ですが、最小の音数で最大の効果を発揮するマイルスの無駄のない一音に触れる時こそが至高の瞬間のような気がします。私にとっては「枯葉」が究極の演奏に思えます。

 幸い、今は地元のジャズクラブのメンバーとの交流が深まるなかで、時には稚拙な私もJAZZ談議に加えていただくことも有ります。

更にはジャズ演奏会のPAなどを担当しているうちに、幾分かでも音を聞き分ける能力が付いてきたような気もしています。

これからも、JAZZは私の人生に彩を添えていただけると思います。

(2023年8月30日・・・JAZZとは「つかず離れず」の良い関係なのです/ヒデ) 

 

10.旧友「エルム」

「青い風」が学生時代に最も多くステージを共にし、仲の良かったバンドは男性フォークトリオの「エルム」です。

エルムの3人は既に社会人で、オーソドックスなハーモニーを完璧なまでに仕上げて演奏するバンドで、半分はノリで演奏する「青い風」とは趣が異なっていました。

3人は宇都宮出身なので地元の仲間も多く、コンサートでは常にファンが沢山集まってきました。特に地元デパート勤務の女子の人気は高く、動員力の無かった「青い風」にしてみればうらやましい限りでした。

そのころに地元アマチュアバンドの人気投票を行ったときは断トツの1位でした(青い風は6、7位だったかと)。

その洗練されたハーモニーは美しく、「女一人」「竹田の子守歌」などは当時から出色の出来でした。

リーダーの柏村信夫(ノボちゃん)はオリジナル曲も創るし、演奏に対する取り組みはシビアーで、豊富な練習量が演奏の実力をどんどん高めていったのだと思います。

「エルム」は音楽プロデューサーの目にも止まり(経緯は詳しく分かりませんが)、オリジナルの「何故か淋しくて」でビクターからプロデビューして話題にはなりましたが、メンバーの一人が急死したことも有り途半ばで地元に戻ることになりました。

地元に戻ってからノボちゃんが若いメンバーと共に再編成した新生「エルム」も、卓越した実力で地元の支持を得て、元プロに相応しいアマチュアバンドとして活躍していました(今は休止中)。

今では栃木県フォーク界のレジェンドとして、後に続く地元のアマチュアミュージシャンの憧れの存在になっています。

「青い風」再開後に、一度だけノボちゃんとベースの大金さんと青い風の4人で宇都宮のライブハウスで披露したPP&Mの演奏は忘れられない思い出になっています(虹と共に消えた恋、ハッシャバイ、時代は変わる、くよくよするなよ、青い風のテーマ)。

6年前に久喜で演奏を披露した「エルム」を聴いて、ファンになったギター小僧が何名かいる事にも得心する私です。

(2023年8月4日・・・やはり、あの頃は良かった!)

 

 

9.青い風のステージ変遷

学生時代の「青い風」の演奏場所は、殆どが栃木会館でした。単独ライブは実施したことが無く、活動前期は仲間でもある「企画集団ふらここ」が頻繁に主催していた「フォークコンサート」でのプロ(吉田拓郎、五輪真弓、高田渡、五つの赤い風船・・・等々)との共演(地元組として)がほとんどでした。今思うと、時代とは言え贅沢なステージに立ち続けていたように思います。

学生時代の活動後期は自身や仲間とのコンサートを企画運営するようになり、地元のアマチュアバンドなどとの交流コンサートを何度か実施しました。このころは「栃木放送」でのレギュラー出演(2本)や文化放送の「こんばんは仲間たち」への出演も経験しました。

 

2011年の「青い風」再開後は、音楽仲間の縁で真岡市の「ボナール」での演奏と、「まりこふん」の関係で東京経堂の「さばのゆ」「スロコメ」などで頻繁に演奏して腕を磨きました。そして徐々に新たな活動場所も増えて、上尾の「アースカフェ」、春日部の「エバーチャイルド」や大田区の「ポルカ」での継続的演奏も実施するようになりました。このころは単独演奏を主体となっていました。

 

「フォークソング同好会」が軌道に乗ってからは、年に2回の「久喜フォークソングライブ」(公民館)や地元久喜市の「ヴィオロン」で「青い風フォーク喫茶」を定期的(年に4回程度)に演奏するようになりました。

単発では、関東一円でのライブハウスからの誘いも有って各地域で可能な限りの演奏交流を続けました。

毎年実施する「東日本大震災復興支援コンサート」や、昨年から始めた「彩の国フォークコンサート」も大切なライブ演奏の場になっています。

その他にも、高齢者サロンでの演奏や地元の公共コンサートでの出演も有り、どこで何を歌ってきたのかは確かな記録も残していません。毎月休まずに実施し、既に130回を超えている「フォークソング同好会定例会」での毎回2時間の演奏も大切なライブステージだと思います。

振り返ると、「青い風」を育てて頂いた沢山の生演奏の機会や場所は私たちの大いなる「宝」です。

今でも、そして将来も生演奏の醍醐味が大好きな私です。

 (2023年7月10日・・・やはり演奏は生がイチバンなどと思いながら/ヒデ)  

 

 

8.まりこふん

青い風(ヒデ&ケイコ)の娘で、プロのシンガーでもある「まりこふん」について紹介します。

4歳のころからピアノを習い始めつつ歌うことも好きだった「まりこ」は、親の影響もあって音楽に親しみ、高校生のころはX-JAPANの追っかけとして全国の追っかけ仲間と交流しつつ日本中を回っていました(学校を休むこともしばしば)。

そのころからミュージシャンを志すようになり、高校卒業後は東京に住みついて音楽学校(国立音楽院、メザーハウス)に通い音楽の基礎を学び、更にはイギリスへの音楽留学などを経て、ヤマハ音楽院のボーカル講師になりました。

ヤマハ音楽教室の講師として働く一方でバンド活動(キーボード&ボーカル)も行っていましたが、次第にバンド活動が忙しくなり、ついには講師の仕事を休止して本格的にミュージシャンの道を進むようになりました。

JAZZピアニストの付き人のような仕事も行いつつ音楽の幅を広げていった「MARI」は、遠征先の自由時間の中で何気なく訪ねた古墳にハマることになり、ついには「古墳ソング」を創り歌うようにもなりました。

応援頂いているプロデューサーから「まりこふん」と命名いただいてからは本格的に古墳シンガーとして注目されるようになり、ついにはTV出演や本の出版なども増えて歴史ブームの中で異彩を放つようになりました。

仲間と共に「古墳にコーフン協会」を設立してからは、古墳活動も全国に広がり、現在は全国の「古墳まつり」や「古墳講演会」のイベント等で忙しく動き回っています。

バンド時代(NACK)にリリースしたCDとは別に、「まりこふん」としても3枚の古墳ソングCDもリリース(レーベルはウルカ・ミュージックレコード)しており、ミュージシャンとしても実力派ソウルシンガーとしてファンを魅了しているようです。

「青い風」とは異質の音楽の道を進む「まりこふん」には、独自のエンターテインメント力を発揮しての活躍を願っています。  

(2023年7月1日・・・自然に親の意思を継いだ「まりこふん」に夢を込めて/ヒデ)

 

 

7.盟友「とら」

フォークデュオ「TORA」の歌い手として広範に活躍する「とら」は、私の音楽人生に欠かせない盟友中の盟友と言い切れる大切な存在です。

 

「青い風」が演奏活動を再開(2011年)し都内で演奏する機会が増えてきたころに、ライブ会場に姿を見せた「とら」と初めて会ったように記憶していますが、彼がどのようにして「青い風」を知ったのか、なぜ会場に足を運んできたのかについては記憶が定かでは有りません。

そして、青い風のライブの途中には、何度もトラの演奏を披露頂いた事を、その迫力のある歌声と共に鮮明に覚えています。

さらに、私が主宰し、毎月地元で実施していた「フォークソング愛好会」にも毎回参加いただき、会の音楽的シンボルとして多くの仲間に慕われていました。

「とら」はシャイな性格で多くを語りませんし特に聞く必要も有りませんが、自作の曲を何度も聞いているうちに人生観や生い立ちなども分かるものです。彼の創る曲やパフォーマンスは「長渕×拓郎÷2」のようにも思いますし、私とは似たような部分と正反対の部分を持ち合わせており、そこが私にとっての大いなる魅力なのです。

今では逢う機会も少なくなりましたが、顔を合わせて手を握れば、それ以上に語る必要も有りません。

 

或る日、トラからきた「ヒデさんと二人でやったディランの『くよくよするなよ』は、今も忘れられない俺の音楽の歴史の大切な一頁です。いつまでの仲良くしてください。」というメッセージは、私の大事な宝物です。

いつか再び「くよくよするなよ」を一緒に歌い終えて無言のハグを交わしたいなどと夢想する私です。

多くを語らない「とら」は、男の中の男・・・です。

(2022年12月29日・・・年の瀬に、ふと懐かしさを感じながら/ヒデ)

 

 

6.盟友「さばいばるいとう」

東日本大震災直後の2011年4月に「青い風」は音楽活動を再開しましたが、最初のころは確たる方向性も無く、「大好きな音楽で人生をバージョンアップしたい。」「音楽を生活の中心にすることで新たなネットワークが築けるかも知れない。」などと、漠然たる思いの中でのスタートでした。

 

そんな演奏活動再開直後に出会ったのが「さばいばるいとう」でした。春日部の某ライブ場で知り合いましたが、抜群の実力と自身の思いをストレートに表現する様は私には持ち合わせていない新鮮な魅力で、直ぐに近い存在になり、その後に私が主催する音楽イベントには度々出演頂くことにもなりました。彼の音楽に対する真摯な姿勢は、正直で温かい人柄と共に全く揺らぐことは有りません。

また、彼の息子で、今はNYでドラマーとして活躍する「MIKIYA」が「青い風」の演奏に何度も加わったことは、私の密かな誇りでもあります。

 

面倒見の良い「さばいばる」を慕う若いミュージシャンはたくさんいますが、彼らは辛口の「さばいばる」の指摘を心地よく感じつつも、少しでも褒めてもらいたい気分で頑張っているようにも思います。そう考えると私も「さばいばる」に正面切って話せる自分でありたいがために自分なりの音楽を追求しているような気もします。

個性的な熟年の音楽仲間や挑戦する若者たちに囲まれている「さばいばるいとう」の輪とは異なる?世界で活動する私は、彼にはどのように映っているのでしょうか?

道筋は違えど、私が勝手に盟友と信じている「さばいばるいとう」は、これからも私に刺激を与え続ける存在であると思いますし、そうあって欲しいと思います。そして、これからも良い距離感での交流が続けられるように私も頑張りたいと思います。

好漢「さばいばるいとう」に敬意と感謝の気持ちで記載しました。

(2022年9月28日・・・本物はどこまでも輝く/ヒデ) 

 

 

5.ELVIS

妹と一緒に有楽町の日劇に「ウエスタンカーニバル」を観に行っていた頃はグループサウンズ全盛でしたが、その昔のカーニバルは山下敬一郎を頂点とする熱狂のロックンロールだったこと、そして原点にエルビスプレスリーが存在していたことは分かっていました。

そのエルビスを実感したのは、グループサウンズもピークを過ぎた頃に観た「ELVIS ON STAGE」の映画でした。

画面の中のエルビスは私の想像を超えていました。でも「上手いなあ。カッコいいなあ。」と思った気持ちもそこ迄に留まっていました。

 

エルビスの本当の凄さ、素晴らしさを知ったのは最近の事です。

地域活動で親しくなったOさんが超の付くマニアにて、エルビスのCD、DVD、関係本等の殆どを収集しているとの事で、音楽談義の中でOさん推薦のDVD数本をお借りして鑑賞しました。

 

容姿や表情は勿論として、とにかく凄いのがその歌唱力です。抜群のリズム感と声量、音域の広さと持ち前の甘い声質、そして喉の持続力も驚異的です。更に確実なギター演奏にも驚きました。飾りではなく正確に弾いているのです。

計算された体の動きも素晴らしく、すべてがエンターテイメントとして完璧に確立されているように思います。

音楽評論家が声を揃えて語る「ソロシンガーの歴代No.1はエルビス。」は、私の中で完全にフィットしました。

でも、対抗するとしたらマイケルジャクソンかな? ・・・との思いが心の中で横切りました。

(2022年8月5日・・・良いものは良い/ヒデ)

 

 

4.ビートルズ

小さいころから音楽が好きだった私は、高校生になるとラジオで洋楽を聴くようになり、ついにはビートルズに傾倒することになりました。最初のころは周りに影響されての一般的興味でしたが、大学生になり直ぐに4人編成のバンドを組みビートルズの曲を演奏するようになるとシンプルなサウンドと歌詞に魅了され、ジョンレノンになりきって人前で演奏するようにもなってきました。

ロックバンドからフォークシンガーに転身してもビートルズサウンドから離れることは無く、とりわけジョンレノンの生き様に純粋さを感じて傾倒するようになってきました。

私の好きな曲は「HELP」「愛こそすべて」「レットイットビー」で、行き着く先はジョンの「イマジン」です。

好きなアルバムは「ラバーソウル」「アビーロード」です。

アルバムは勿論、恐れ多くもビートルズ研究者を目指していた時期には関係する書籍もたくさん読みました。

ジョンレノンミュージアムにも5,6回は訪れて、詩人ともいえるジョンの世界に浸りました。

 

ストーンズやサンタナ、そしてビージーズ、クラプトンなどに凝った時期も有りましたが、常に私の戻る先はビートルズでした。

何といっても、若者や社会に大きな影響を与えて新たな時代を創り出しリードしてきたのがビートルズだと思います。

 

振り返ると、歴史上の偉人や恩師以上に私の人生に強く影響を与え、常に道標として存在していたのが「ジョンレノン」と「吉田拓郎」であったような気がします。だから私は胸を張って音楽人間と言い切れるのかも知れません。

 

今後も大切に「LET IT BE」を歌いたいと思います。

(2022年8月3日・・・我が人生の道標に/ヒデ) 

 

 

3.岡林信康

フォークソングに目覚めた頃に鮮烈に心に刺さってきたのが「フォークの神様」岡林信康で、その風貌とステージでの振る舞い、ハートフルな曲の全てに魅了されました。

反体制をストレートに表現する曲も良いのですが、私は部落などの差別に対する抗議をモチーフにした「チューリップのアップリケ」「手紙」などの飾り気のないマイナー調の曲に惹かれました。

 

フォークシンガーであることに嫌気がさして田舎での隠遁生活を行ったり、復帰の際にはエンヤトットなどと表して独特の演歌調の演奏スタイルに変えたりしてきた歌手履歴が神話的にクローズアップされるが、私にとっては違和感はあまり有りませんでした。

もともとフォークと演歌の差は殆ど無いと思うからです( 日本人の基本的心情は演歌なので、自己主張であるフォークの到達点が演歌になるのは「南こうせつ」「谷村新司」「堀内孝雄」などの楽曲にも現れています)。

体制への反逆児であって欲しいと願う岡林の熱狂的信者には申し訳ないが、Amのコード展開を基本とする岡林のフォークは最初から演歌であったような気もします。

 

いずれにせよ、フォークが本来のフォークであった時代の象徴が岡林であり、ひとつの時代を体現してきたのも岡林なのです。

激動の時代の中、新宿西口広場で若者が反戦、反体制を熱狂的に叫ぶように繰り返し歌った曲「友よ」の圧倒的熱量が本人を超えて岡林を神格化したのかも知れません。

 

今も「私が神様、岡林です。」と自己紹介する岡林に対して、若干の「後ろめたさ」さえ感じてしまう「元岡林信者]の私なのです。

 

(2022年7月26日・・・憧れの存在が居ればこそ/ヒデ) 

 

 

2.吉田拓郎

ロックから転身してフォークソングを歌うようになってから最初に興味を持った日本のミュージシャンはのは岡林信康ですが、長く、そして最も強く影響を受けたのは吉田拓郎です。

吉田拓郎は1970年にデビューした頃から人気が急上昇し、思いを素直に表現するオリジナル曲も素晴らしいが、それ以上にライブ演奏時に自然体で語るトークは追随を許さぬ面白さで、いつも観客を大いに沸かせていました。

60年代末に全盛であったアングラフォークにとどまらず、反体制の思いを表現する一方で恋や愛についても素直に歌う姿勢は広く受け入れられ、さながらフォークのアイドルと言える存在になりました。

 

拓郎が人気が出始めた頃から宇都宮にも何度か訪れ、駆け出しの「青い風」も地元のアマチュアミュージシャンとして何度かステージを共にしたことが有ります。そんな時、雑然とする控えホールの片隅で一人で背中を向けてギターを抱えて演奏確認をしている孤高の姿が記憶に残っています。ステージでの自由奔放な姿とのギャップは私にとっては小さな驚きになっていました。

同時に、それもシャイな拓郎の人間らしさとして魅力的に思えました。

 

私の好きなアルバムは「ローリング30」と「今は人生を語らず」の二枚で、好きな曲は「どうしてこんなに悲しいのだろう」「イメージの詩」「ペニーレーンでバーボン」「ローリング30」「外は白い雪の夜」「落陽」です。

そして好きな曲と共に、あるいはそれ以上に拓郎の人間性に惹かれ続けてきました。多くの拓郎ファンのように、常に拓郎を感じながら生きてきたような気がします。

 

拓郎は今年で表舞台からの引退を表明しました。一つの時代の終焉なのでしょうか。私たちの時代の幕引きなのでしょうか。

(2022年7月25日・・・一つの時代の終焉を感じつつ/ヒデ)   

 

 

1.フォークソングの歴史

南北戦争が終わり、落ち着きを取り戻してきた1900年頃からアメリカ南部ではジャズ(管楽器系)やブルース(ギター系)がポピュラーになる一方で、山間部では牧歌調のカントリーミュージックが1920年ころから台頭してきました。                 

初期のアメリカンフォークソングはカントリーミュージックからの発展形と思われ、労働歌、反戦歌的要素を含み次第にヒット曲やスターも生まれてきました。

1960年代になると個人ではボブディラン、バンドではPP&Mがブームを作り出し、日本の若者たちにも多くの影響を及ぼすことになりました。

 

日本では、1960年代の半ばからカレッジフォーク(サベージ、ブロードサイドフォー、森山良子、マイク真木等)が台頭し、60年代後半は反戦系やアングラ系フォーク(高石友也、岡林信康、フォーククルセイダーズ等)が注目されるようになってきました。中でも岡林信康は反体制の中心的存在となり「フォークの神様」などと呼ばれました。

フォークを表舞台に引っ張り出したのは1970年デビューの吉田拓郎であり、その後には井上陽水、かぐや姫、アリス、などのヒットメーカーが台頭し、75年ころにはユーミン、中島みゆきを中心に女性シンガーが中心にニューミュージックと呼ばれるメジャーサウンドが歌謡アイドルと並んで音楽界の中心になってきました。

 

フォークは拓郎が1980年ころまでリードしたが、その後は長渕剛が独特のスタイルでインパクトを与え続けています。

私は、真のフォーク時代は吉田拓郎がけん引した1970年~1980年のように感じています。

(2022年7月20日・・・HP再開を記念して/ヒデ)